大判例

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福岡高等裁判所 平成4年(う)166号 判決 1992年7月16日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、被告人及び弁護人宗我達夫提出の各控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これらを引用する。

所論は、要するに、原判決は、被告人が本件の腕時計を窃取した旨認定しているが、これを認めるに足りる証拠はなく、原判決には明らかに判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認がある、というのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調の結果をも参酌して検討するに、富安近作成の被害届(<書証番号略>)、同人の司法警察員に対する供述調書(<書証番号略>)、司法警察員及び司法巡査作成の各「領置状況報告」と題する書面(<書証番号略>)を総合すると、富安近は、平成二年一一月一八日福岡市早良区原<番地略>の同人方において、所有にかかる腕時計一個(時価三万円相当)を窃取されたこと、及びその腕時計が約八か月後の平成三年八月八日に、肩書の被告人方住居において発見されたことが認められる。

しかして、被告人が本件窃盗の犯人であることを証明する直接の証拠としては、本件犯行現場から採取された滑り止め付きの手袋痕と、被告人が逮捕されたときに所持していた滑り止め付きの手袋を被告人がはめて印象し採取したその手袋痕の両者を比較対照した鑑定書(<書証番号略>)があるが、これについて、原判決は、右鑑定書によれば、現場から採取された手袋痕は被告人が所持していた手袋と同種の手袋により印象されたものと推認され、これに、このような手袋痕の鑑定においては同一性の推定にまで至らないものが六、七割あるという原審証人豊福俊雄(右鑑定人)の証言を参酌すると、現場に残された手袋痕は、右被告人の手袋により印象されたものである可能性が高いと判示している。

しかしながら、右鑑定書においては、右二つの資料の滑り止め模様の形状に特異なものがあるとか、模様に特異な特徴がないため、両者を同一ということはできないが、印象幅が近似していること、滑り止め模様の間隔の計測値が一致又は近似していること、模様の形状がいずれも円形状であること、模様の個々の大きさの計測値が一致又は近似していること等から、現場の手袋痕が被告人が所持していた手袋によって印象された可能性が高いと考えられる、右鑑定人の言葉でいえば「大体これでやったか、ほかのものでやられた可能性もあるという、その程度の結果である。」というに止まるのであり、また、右証言によると、同じ会社が生産した同じ種類の手袋であれば同じような数値が出る可能性があるというのであり、被告人が所持していた手袋が特殊なものではなく、一般に大量に販売されているものであることを考慮すると、右鑑定の結果から現場に残された手袋痕が被告人所持の手袋によって印象されたものと断定することはできず、従ってこれをもって被告人が犯人であることを立証する直接証拠とはいえない。そして記録を検討してもかかる直接証拠は存しない。

ところで、本件の場合、被害物件を被害発生と近接した日時、場所において所持していたといえないのであるから、被害品所持の事実から被告人を窃盗犯人とすることはできず、このような場合には、他人から買い受けたり、貰い受けたりする場合があり得るのであって、被告人を窃盗犯人とするには、右所持の外に、被告人が窃取したものと認めるべき状況証拠が存しなければならない。

この点につき、原判決は、前記手袋痕の鑑定のほか、次のような状況を判示している。すなわち、

1  被告人は、本件腕時計を、平成二年一二月から平成三年一月ころ、博多駅構内で、名前を知らない五〇歳すぎのサラリーマン風の男から、金の指輪と合わせて一万五〇〇〇円で買った旨弁解するが、譲り受けた場所についての供述には変遷があって一貫性に欠け、これらの供述を博多駅の客観的状況に照らして考察すると、被告人が譲り受けたと供述する場所に対応する場所が実在しないから、右弁解供述は信用できないこと。

2  被告人が友人野崎藤夫から本件腕時計とよく似た腕時計を貰ったとの被告人の弁解にそう被告人の供述や原審証人野崎藤夫の証言は信用できず、従って被告人がいうような時計の贈与を受けた事実は疑わしく、被告人が、通院していた病院の看護婦吉村栄子に見せたという腕時計は本件の腕時計であるというほかないところ、これにつき被告人が右吉村に友人から貰ったと説明したのは虚偽であり、このような嘘を述べたのは、その入手のいきさつについて事実を述べたくない事情があったものと推測されること。

3  被告人は、平成二年一一月一八日に、博多・佐賀方面から長崎行きの「かもめ三一号」が肥前山口駅に到着する時間と近接した時間に、肥前山口駅から自宅までタクシーに乗ったことが認められるので、この日に佐賀、福岡方面に外出していたことが推測されるところ、当日歳暮を買いに佐賀に行ったという被告人の弁解供述は信用できず、福岡方面へ外出していたことが推測できること。

4  被告人は、平成三年八月七日、福岡市内で逮捕された際、前記滑り止め付きの手袋のほか、ドライバーを左足にゴムバンドでとめて隠し持っていたが、これを所持していた理由として述べるところは不合理で信用できず、被告人がかって犯した窃盗の手口が本件の窃盗の犯行の手口と同じであること。

以上のような事情をあげている。

そこで以下順次検討する。

1 本件のような場合、見知らぬ者から盗品を買い受けたり、貰い受けたりすること等があり得ること並びにそのことを容易に立証し得ない場合があることにかんがみると、その入手のいきさつについて立証できないからといって直ちに犯人との推認を受けるいわれはない。原判決は、氏名不詳の男から腕時計を買い受けたという被告人の弁解を信用できないというのであるが、かかる事情は窃盗の事実を認定する状況証拠としては十分でないといわなければならない。なお、被告人が買い受けた場所について供述するところは明確さや一貫性がなく、かつこれを裏付ける証拠もないのでにわかに信用しがたいが、他方、博多駅構内のコインロッカー前付近という点においては始終変わらぬ供述をしており、本件腕時計と一緒に買い受けたという指輪が被告人方から発見されていることや、買い受けたという日からおよそ八か月経過し、かつ原審及び当審公判廷における被告人の供述によると、被告人は腕時計を買い受けたというその日(平成二年の暮れから平成三年の初めにかけてのころ)に駅構内の一箇所に終始いたわけではなく、構内を移動したというのであるから、その場所の説明を適切な表現で正確にしていないのではないかとの疑いを払拭しがたいこともあって、本件腕時計は買い受けたものであるという弁解を虚構であると決めつけるにはなお疑問が残るといわざるを得ない。

2  次に、吉村栄子に腕時計入手のいきさつについて虚偽の説明をしたとの点について検討するに、この点に関連し、事前に打合せをした形跡もないのに時計の形状その他主要な点について被告人の供述と一致している原審証人野崎藤夫の証言の信用性を否定し、被告人が同人から腕時計を貰ったことがある旨の弁解をも否定した原判決の認定には賛同しがたいところがあるが、それはさておき、原判示のとおり、被告人が病院で吉村に見せた時計が本件の腕時計であったとしても、同人との話は雑談の域を越えず、その入手のいきさつを正確に説明しなければならない性質のものではなく、かつ、博多駅で見知らぬ者から購入したというのは通常の購入方法ではないのであるから、真実に反しそれを友人から貰ったと説明したからといって、その入手のいきさつに真実を述べたくない事情があったと推測するのは妥当ではなく、まして、窃盗犯行認定の状況証拠ということはできない。

3  被告人が本件窃盗被害発生の日である平成二年一一月一八日に福岡方面に出かけていたかどうか検討するに、関係証拠によると、博多発・長崎行き「かもめ三一号」の肥前山口駅到着時間と近接した時間に、被告人が同駅から自宅までタクシーに乗ったという事実を認めることができるが、右事実からはせいぜい被告人が福岡方面に行った可能性があるといえるだけで、それ以上に特定の場所に行ったことが推認できるものではなく、この理は、当日の行動に関する被告人の供述が信用できず、かつ被告人がしばしば福岡へ出かけていた事実があるとしても変わりはない。してみれば、被告人が当日福岡方面へ外出していたことが推測できるとした原判決の判断はその論拠を欠き是認できない。

4  最後に犯行の手口の類似性について検討する。

関係証拠によると、被告人は、逮捕当時原判示のとおりドライバー及び手袋を隠し持っていたことが認められる。そして、ドライバーを隠し持っていたのは尾行していた警察官に見せびらかしてからかうためであったなどという被告人の供述は不自然で信用できず、それは窃盗犯行に使用する目的であったと推認するのもあながち不当とはいえない。しかしながら、被告人がドライバー及び手袋を所持していたからといってそのことが直ちに八か月も前に発生した本件窃盗の状況証拠として十分であるとはいえない。また、原判決は、被告人がかって犯した窃盗の態様が、手袋をはめてマイナスドライバーで三角形にガラスを割り、ガラスをはずしてそこから手を差し入れ錠をはずして屋内に侵入する手口であり、本件も被害現場の居間南側引き戸のガラスが割られてはずされ、これと一致する三角形のガラス片が付近に置かれ、右引き戸の施錠がはずされている旨認定し、手口の類似性からこれを被告人の犯行を裏付ける状況証拠と評価している。たしかに関係証拠によると、右事実を認めることができる。しかしながら、ドライバーで三角形にガラスを破り、これをはずしてそこから手を差し入れ施錠を外す手口は屋内侵入の一般的なもので特殊なものではないから、このような手口が似ているというだけで、状況証拠とするには十分ではない。

以上説示のとおり原判示があげていることは状況証拠になりえないかあるいは不十分なものであって、これらを総合しても被告人が本件窃盗の犯人であると認定することはできない。すなわち、被告人が本件腕時計を所持し、これを所持するに至った経緯について他を納得せしめる弁明をしていないことなどから、被告人が犯人ではないかという疑いがまったくないわけではないが、本件腕時計は、被害者が盗難に遇ってから八か月以上も経過した後に、被害場所から遠く離れた被告人方で発見されたものであることを考慮すると、被告人が買い受けたという弁解もまったくあり得ないものではなく、被告人を犯人であるとするにはなお合理的な疑いを入れる余地があるといわざるを得ない。

してみると、本件公訴事実は、結局、犯罪の証拠がないことに帰するから、被告人が本件腕時計を窃取したものとして被告人に有罪の言渡しをした原判決には、事実の誤認があり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

よって、本件控訴は理由があるので刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、昭和五八年四月二二日岸和田簡易裁判所において窃盗罪等により懲役一年八月に、同六〇年六月二六日神戸簡易裁判所において窃盗未遂罪等により懲役一〇月に、同六二年二月七日福岡地方裁判所飯塚支部において常習累犯窃盗罪により懲役二年六月に各処せられ、いずれもそのころ右各刑の執行を受け終わったものであるが、さらに常習として、平成二年一一月一八日、福岡市早良区原<番地略>富安近方において、同人所有の腕時計一個(時価三万円相当)を窃取した。」というものであるが、前示のとおり、犯罪の証明がないので刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官前田一昭 裁判官徳嶺弦良 裁判官長谷川憲一)

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